ケネス伊東 (けねす いとう)
楽器 | Guitars, Bass, Vocal。 |
コメント | ザ・ゴールデン・カップスのギタリスト/ベーシストとして、60年代後半のグループ・サウンズ・ムーヴメントのハードな部分を支えていた。 46年1月1日生。ハワイオアフ島出身(日系アメリカ人二世)。 本名:Kenneth Ito。 愛称:ブッチ。 57年(11才)の時、米国軍人だった父の赴任に伴い来日。 加部正義(後のルイズルイス加部)と知り合い、一緒にウェスタン等を演奏する様になる。 やがて加部と共に「ジョニー・アンド・ショーメン」というバンドに参加(ベンチャーズ系だったらしい)、横浜のアメリカン・スクールに在学中にジョニー野村等がいた「テイク・ファイヴ」に参加、このバンドに欠員が出来た時にケネスの誘いで加部もサイド・ギターで参加する。 その後「(平尾時宗と)グループ・アンド・アイ」に参加、これが後に60年代グループ・サウンズにおける重要なバンドのひとつである「ザ・ゴールデン・カップス」となりメジャー・デビューする。 68年3月にシングル「長い髪の少女」が大ヒットしアイドル的な人気を得るが、一方アルバムやライヴでは渋い選曲と確かなテクニックで一目おかれる存在となる。 ケネスはカップスのレパートリーの中でも特に名演と言われる「ヘイ・ジョー」でもヴォーカルを取っており、カップスのガレージっぽいサウンドの部分で活躍していた。 「パワーハウス」のレコーディングにもサイド・ギターで参加している。 1枚目の「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム」にはケネスがジャケットに写っているが、2枚目以降はジャケット写真やクレジットから消えている。 同年10月21日にケネスは観光ビザで日本に戻ってくる。 この様に、ケネスは表向きカップスに在籍していないことになるが、実質的には4枚目アルバム「スーパー・ライヴ・セッション」まで( シングルは「ルシール」まで)、一部を除き参加している。
69年4月にはエディ藩と共に脱退し、「エディ藩グループ」(第一次・第二次)に参加する。 シングル「にがい涙」ではケネスもジャケットに写っているが、既にニューロック化していたカップスはTV等のメディアへの露出も減っていたため、あまり問題にならなかったのだろう。 70年になると、ベトナム戦争が激化し、ケネスも徴兵の恐れが出てきた。彼の父は、ベトナムへ送られることを避けるため軍需関係の仕事に就くことを勧め、ケネスは70年秋に三度カップスを脱退、ベトナムやフィリピン、沖縄等を往復する米軍貨物船に乗り込むことになった後任は柳譲治)。
72年にケネスは貨物船を降り、日本への永住のため帰化申請等をいろいろ図るが、ついに許可は下りず、74年にケネスは家族共々日本を後にハワイに渡る。 「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」では故ケネスに代わり、ケネス夫人であった渡辺えり子や義弟(つまり渡辺えり子の弟)のゲーリー渡辺が「Kenneth is forever」として彼の思い出を語っていた。 また、同映画に収録された再結成カップスの演奏シーンでは、「ケネスに捧ぐ」として、エディ藩がケネスのレパートリーだった「グロリア」を熱唱するシーンがあり、映画のハイライトとなっている。
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Writer/Editor | 高崎勇輝 |
Special Thanks to | 「日本ロック紀GS編」黒沢進氏著(シンコー・ミュージック刊) [日本ロック大系」(白夜書房刊) 「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス(1955〜1970)」黒沢進監修(シンコー・ミュージック刊) 「ロック画報07」(BI PRESS刊) 「天使はブルースを歌う」山崎洋子氏著(毎日新聞社刊) 「みんなGSが好きだった」北島一平・中村俊夫両氏著(扶桑社文庫) ザ・ゴールデン・カップス公式サイト 「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」サン・マー・メン著(小学館刊) 「ザ・ゴールデン・カップスのすべて」和久井光司編(河出書房新社刊) |
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