加部 正義 (かべ まさよし)/ルイズルイス加部 (るいずるいす かべ)
ベーシスト/ギタリスト。
60年代はザ・ゴールデン・カップスのベーシスト/ギタリストとして、60年代後半のグループ・サウンズ・ムーヴメントのハードな部分を支えていた。 カップスの中でもアイドル的な人気をマモル・マヌーと二分していたが、キャラクターはかなりワイルドで、ブッとんだベースラインは今聞いても斬新である。 70年代前半はまたフード・ブレイン等商業性を度外視した強面のロック・バンドに参加し、一時シーンから姿を消していたが、70年代末に日本最強のロック・トリオとも言うべきピンク・クラウドに参加、そのワイルドなプレイは日本のロック史を彩っている。
本名:加部 正義。 愛称:マーちゃん、マー坊
等。父親はフランス系アメリカ人で、「ハーフのバンド」という触れ込みだったザ・ゴールデン・カップスでも実は数少ない「本物のハーフ」である。
ルイズルイスは父親の名前を取ったらしい(「Louise」は女性の名前で「Loius」が男性の名前の様な気がするのだが)。 中学二年の時にギターを始め、共にザ・ゴールデン・カップスに参加するケネス伊東やアメリカン・スクール(「セント・ジョセフ」)で「テイク・ファイヴ」というバンドをやっていたマーク・フェルナンデスにギターを習う。このテイク・ファイヴは別名「ワイン・メン」と言い、ゴダイゴのプロデューサーとなったジョニー野村やケネスも在籍していたバンドだった。 最
加部は最初はケネスとウェスタン等を演奏しており、ケネスと共に「ジョニー・アンド・ショーメン」というバンドに参加(ベンチャーズ系だったらしい)、その後「ストライブス」というバンドを結成する。
武相高校在学中の66年1月にケネスに誘われて腕を骨折したマークに代わりテイク・ファイヴに参加、「ミッドナイト・エクスプレス・ブルース・バンド」を経て、デイヴ平尾とエディ藩を中心に結成された「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」に参加した。 加部は本来ベースだったが、69年のエディ藩の脱退でリード・ギターに回る。 加部がリード・ギターだった頃のカップスは、レッド・ツェッペリン等もレパートリーに加えた、最もハードロック色の強い時期となった。 しかし69年末に加部も林恵文と共にカップスを脱退する。 脱退後は林恵文、ジョン山崎らと「ルーム」と言うバンドを組むが直ぐに解散、70年の半ばに「フード・ブレイン」(陳信輝(g)、加部正義(b)、角田ヒロ(Dr)、柳田ヒロ(Key))に参加、同年10月に象のジャケットで有名な「晩餐」をリリースする。 しかしフード・ブレインも直ぐに解散し、71年は陳信輝(g)、ジョーイ・スミス(Dr & Vo)と「スピード・グルー&シンキ」を結成、シングル2枚(「ミスター・ウォーキング・ドラッグストア・マン」c/w「悪人へ捧ぐ」と「ラヴ・アンド・ハイド」c/w「カーム・ダウン」)、アルバム2枚(「前夜」と「スピード・グルー&シンキ」)をリリースする。 同時期の陳信輝のソロ・アルバム「Shinki Chin」の録音セッションにも参加。「スピード〜」は71年7月のゴールデン・カップスの日比谷野音でのライヴ(ガッツ・イン・コンサート)にも参加している。 73年頃の「スピード〜」解散後はデイヴ平尾、柳ジョージ、アイ高野らと「(ニュー)ゴールデン・カップス」として京都のサパークラブ「ママリンゴ」等で昔の曲を演奏(バンド名も「横浜よいどれバンド」や「ママリンゴ」を名乗っていたこともある)、74年の郡山での「ワン・ステップ・フェスティヴァル」にも出演するが、これもやがて解散することになる。その後内田裕也バンドにも一時在籍したらしい(未確認)。 76年の「スクール・バンド」(ジョン山崎(Vo&Key)、マシュー・ザルウスキー(g)、高橋ゲタオ(b)、古田たかし(Dr))のアルバム「Our Best Songs Now」にゲストで参加、山口富士夫(g)、コッペ(b)、ビショップ(Dr)と「リゾート」を結成(加部もギター)するが、77年には解散、その後メジャー・シーンから姿を消していたが(アメリカに渡っていたという説もある)、79年にChar(チャー)、ジョニー吉長と「ジョニー・ルイス&チャー」(J,L&C)を結成、79年日比谷野音の「フリー・スピリット・コンサート」でのライヴで鮮烈に再登場する。 J,L&Cは82年に「Pink Cloud(ピンク・クラウド)」と改名するが、80年代後半に活動停止するまで日本屈指のロック・トリオとして高い評価を得る(正式な解散は94年)。 「ピンク・クラウド」活動停止後は、ソロ・アルバムのリリースや96年の再結成「ウオッカ・コリンズ」への参加、「ぞくぞく家族(ZOKUZOKUKAZOKU)」、「布谷文夫&DEW」等、マイペースの活動を続けている。
2003年にはザ・ゴールデン・カップスの再結成(映画化)にも参加、ライヴやテレビ出演等も行った。 ザ・ゴールデン・カップスのメンバーの中でも、端正なルックスとワイルドな雰囲気で人気が高かった。 ワイルドと言えば、カップス時代に地方のラジオ局などを営業で回っている時に、アナウンサーが横柄な態度を取ったりするとナイフを持ち出して「てめえ気にいらねぇ、ぶっ殺してやる!」と怒鳴ったとかいうエピソードもあるらしい。カップス時代はステージをすっぽかす常連で、「昼の弁当が大嫌いなものだった」とか、「天気がいい」ことがサボリ理由になってしまう中々スゴイ人だった。 「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス(1955〜1970)」収録の「ミュージック・ライフ」での脱退後のインタビューでも「超投げやり」な雰囲気が伝わってくる。 2002年の「ロック画報」7月号にインタビューが掲載されているが、ハッパだの当時はラリってただの、危ない話ばっかりしている。いくつになってもロック少年の面影が薄れないところがこの人の魅力である。 ZokuZokuKazoku-Official Web site
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