(The) Golden Cups(ザ・ゴールデン・カップス)

60年代後半〜70年初頭にかけて活動したグループ・サウンズを代表する実力派バンド。  在籍したミュージシャンは70〜80年代のロック界で活躍し、その流れは現在まで受け継がれている。

66年12月、横浜・本牧のクラブ 「ゴールデン・カップ」を中心に活動を始めたバンドで、当時は「(平尾時宗と)グループ・アンド・アイ」という名前だった。 当時横浜には米軍キャンプがあり、ベトナムへと向かう米兵が横浜界隈でつかの間の休息を求め、米国文化が溢れていた。
「ゴールデン・カップ」はこうした米兵を相手に酒とR&Bを提供する店で、当時の横浜の人気バンド「スフィンクス」に在籍していたデイヴ平尾が、同じく横浜の人気バンド「ザ・ファナティクス」や「テイク・ファイヴ」等からベスト・メンバーを集め、このバンドを結成した。

彼らは日本人ばなれした感覚とテクでR&Bを演奏しており、玄人筋にはたちまち知られる様になる。

67年6月、バンド名を「ザ・ゴールデン・カップス」に改め東芝/キャピトルよりメジャー・デビュー。 シングルではGS色に合わせた「いとしのジザベル」(公称18万枚のセールス)や「長い髪の少女」(公称35万枚のセールス)を発表し、人気バンドとなる。

結成当時のメンバーはデイヴ平尾(Vo.)、エディ藩(Gt./Vo.)、ケネス伊東(Gt./Vo.)、ルイズルイス加部(B.)、マモル・マヌー(Dr.)で、メンバー全員がハーフと言われていた(実際にはハーフはルイズルイス加部のみ)。 

シングルは営業用と割り切り、ジャズ喫茶でのライヴやアルバムでは本来の音楽志向に合わせてゼム、ヤ−ドバーズ、ジェームス・ブラウン、オーティス・レディング等R&Bのカバーやオリジナルを演奏、グループサウンズの中でも通向けのバンドとして現在に至るまで独自の評価を得ている。

チャーも昔は一応カップスのファンだったと語っており、また難波弘之(ex. Sense of Wonder etc.)、松任谷由実、大貫妙子、矢野顕子等も皆GSを語る時にはカップスの名前を挙げている。

68年7月にアメリカ人であったケネス伊東がヴィザの関係で一時出国、その後再来日するが、ワーキング・ヴィザが取れなかったため、テレビ出演等公式に活動をすることが出来なくなる。その代わりとして、カップスは当時高校生ながら横浜屈指の天才キーボーディストと言われていたミッキー吉野(Key)を加入させる(ケネスはライヴハウス等の小規模のギグでは演奏し、レコーディングでも(クレジットはないものの)参加し続けた)。

カップスは68年3月にデビュー・アルバム「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム」、9月に「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム 第2集」、69年3月に「ブルース・メッセージ」と続けざまにレコードをリリース、69年4月には横浜の「ゼン」でスタジオ・ライヴをレコーディングし、これは同年8月に「スーパー・ライヴ・セッション」としてリリースされる。 この時期は、デビュー当初のR&Bから、エディ藩やケネス伊東によるホワイト・ブルーズへとサウンドのスタイルが移行していった。

しかし、69年4月にエディ藩とケネス伊東がカップスを脱退、「エディ藩グループ」を結成した。 このためベースのルイズルイス加部がギターに回り(加部は元々はギタリス トだった)、ベースにはかつてミッキー吉野とバンドを組んでいた林恵文が加入した。この時期は、加部のギターが暴れまわる、カップスとしてもっともハード・ロック色の強い時期となる。

このメンバーでは渋谷公会堂のライヴ「ザ・ゴールデン・カップス・リサイタル」やシングル「蝶はとばない」をリリースしたが、69年末に再びルイズルイス加部、林恵文、マモル・マヌーが脱退、カップスは活動停止の危機にさらされる。
ここで、残ったデイヴ平尾(Vo.)とミッキー吉野(Key)に、エディ藩グループ(エディ藩(Gt.)・ケネス伊東(B)・アイ高野(Dr.))が合流し、カップスは活動を継続する。
時代はグループ・サウンズの終焉とニュー・ロックの台頭の時期に重なっており、シングル「にがい涙」等はGS色を払拭、完全にニュー・ロックのサウンドとなっていた。後期カップスではミッキー吉野がアレンジに目覚め、実験的なサウンドに取り組む等音楽的なリーダーシップを取るようになる。 この時期はバンドの枠を超えたセッション活動が盛んになっており、「10円コンサート」等のロック・フェスにカップスも参加するようになった。 

70年秋にはベースを担当していたケネス伊東がベトナムに従軍することになり、代わりに横浜のブルーズ・バンド「パワーハウス」に在籍していた柳譲治(後の柳ジョージ)が加入する。

このメンバーで、アルバム「フィフス・ジェネレーション」を制作、オリジナルを中心に実験的なサウンドを試みるが、この時期デイヴ平尾とミッキー吉野が大麻所持容疑で逮捕され、当時未成年だったミッキーはバンドからの脱退を余儀なくされる。 71年1月には「フィフス・ジェネレーション」がリリースされ、同年6月カップスを脱退していたミッキーはアメリカ・ボストンのバークリー音楽院に入学する。

カップスはミッキーの後任としてジョン山崎を加入させ、ライヴ・アルバム「ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス」やシングル「人生はきまぐれ」をリリースするが、71年末に解散を宣言、72年1月に沖縄でライヴを行い、これが最後のステージとなる。

73〜74年頃、デイヴ平尾を中心にクラブ等で営業的に「(ニュー)ゴールデン・カップス」として演奏していたこともある(これには柳ジョージやルイズルイス加部も一時参加していた)が、レコーディングには至っていない。

デイヴ平尾はその後ソロ歌手として、シングルやアルバムをリリース、司会者や俳優としても活動した。80年からは六本木のライヴハウス「ザ・ゴールデン・カップ」でハウス・バンドを率いて唄い続け、現在は六本木のクラブ「ボールド」の専属となっている。

エディ藩は、自己のバンド「エディ藩グループ」「エディ藩とオリエント・エクスプレス」等を率い、70年代に2枚、80年代にも2枚アルバムをリリース、シングル「横浜ホンキートンク・ブルース」をヒットさせるが、以降は家業の中華料理店の経営に携わる。
90年代半ばから家業と並行して音楽活動を再開、2004年には本格的に音楽活動を再開させ、2000年代にはアルバムを2枚リリースした。

ルイズルイス加部は「フード・ブレイン」「スピード・グルー&シンキ」等のニュー・ロックの名バンドを経て、78年末にチャー、ジョニー吉長と「ジョニー・ルイス&チャー」を結成、 「ピンク・クラウド」と改名し、80年代の日本の最強ロック・トリオとして君臨する。
現在は「ぞくぞくかぞく」でマイペースの活動を展開している。

ケネス伊東はベトナムへの従軍を解かれた後、日本での音楽活動再開を試みるが、ヴィザが取得できず断念、ハワイに定住し音楽活動からは退くが、97年に鬼籍に入っている。

マモル・マヌーはカップス脱退後、ソロ歌手としてデビュー、その後一時音楽活動から退いていたが、現在では再びGS関係のイベント等でその美声を聞かせている。

ミッキー吉野はカップスを脱退してバークリー音楽院でアレンジとピアノを学び、帰国後はミッキー吉野グループを率いて活動開始、76年に自己の理想のバンド「ゴダイゴ」を結成、78年の「ガンダーラ」の大ヒットで国民的バンドとなった。85年のゴダイゴ解散後も、ソロ活動を行い、作曲・編曲でも活躍、2004年の「スウィング・ガールズ」では日本アカデミー最優秀音楽賞を岸本博と共同で受賞した。
2005年からゴダイゴを再始動、現在に至っている。

林恵文はカップス脱退後、ルイズルイス加部と行動を共にしていたが、その後渡米、音楽業界からは退いている。

柳ジョージは、カップス解散後、「柳ジョージとレイニーウッド」でブレイク、「スマイル・オン・ミー〜微笑みの法則」等のヒットを飛ばす。レイニーウッド解散後もソロ活動で活躍している。

アイ高野はカップス解散後にエディ藩グループやソロ活動を経て、80年代にはクリエイションで「ロンリー・ハート」等のヒットを飛ばす。以降もアニメのサントラやGS関係のイベントで活動するが、2006年に急逝した。

ジョン山崎は、カップス解散後に「エディ藩とオリエントエクスプレス」で活動、その後ティン・パン・アレイ系のミュージシャンと活動し、「ジョン山崎とスクール・バンド」でアルバムを2枚リリースしたが、その後ハワイに渡り、現在では音楽界から退いている。

2003年にはドキュメンタリー映画「ザ・ゴールデン・カップス ワン・モア・タイム」のためにカップスが再結成され、コンサート、テレビ出演等を行った(映画と同名のライヴ・アルバムもリリースされた)。 カップスとしての活動は04年10月15日の渋谷公会堂でのコンサートで一段落するが、2007年には結成40周年のライヴを行う予定。

ザ・ゴールデン・カップス公式サイト

 

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