ジョン山崎 (じょん やまざき)

楽器 Keyboards, Guitar, Vocal。
コメント ゴールデン・カップスの解散直前にキーボードで参加、日本のフォーク/ロック/フュージョンをクロスオーバーするキーボーディストとして活躍した。70年代にはリーダー・バンドとして「スクール・バンド」を率いていた。

50年横浜・藤棚生。
4歳の頃からピアノを始め、小学生の頃にアマチュア・バンドで演奏する様になる。
かれもケネス伊東等と同様横浜のアメリカン・スクール(セント・ジョセフ校)出身である。

70年に「ザ・ゴールデン・カップス」を脱退したルイズルイス加部林恵文らと共に「ルーム」というバンドを組むが、すぐに解散する。71年初にミッキー吉野が カップスを脱退したのを受けて、71年7月にはカップス(MarkVIII)に参加する(在籍時のレコードはアルバム「ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス」とシングル「人生は気まぐれ」のみ。

カップスは71年に解散、70年代半ばまではエディ藩「エディ藩グループ」「エディ藩とオリエント・エクスプレス」に参加する等エディと活動を共にしている。 オリエント・エクスプレスのアルバム「その1」ではエディ藩や秋山新之助と共にアレンジも担当している。

他には72年に泉谷しげるのアルバム「地球はお祭り騒ぎ」、73年には(仲井戸麗市がいた)フォーク・デュオ「古井戸」の「ぽえじー」収録の「らびん・すぷーんふる」の作曲を担当する等、エレック系フォーク・アーティストのバッキングに参加する。この頃エレックのスタジオをやっていたチャーと接点が出来たらしく、78年前半には辻野リューベン、ジョージ・マスティッチらと共にチャーのバックに参加、79年の日比谷野音でのジョニー・ルイス&チャーの「Free Spirit」コンサートにもゲストで出演している。

ジョン山崎はニューロック出身であると共に細野晴臣等「ティンパン・アレイ」の人脈(はっぴいえんど〜ティンパン人脈)に連なり、73年にはフュージョン・グループの走りとも言える「バンブー」に参加する(小原礼(B)・大村憲司(G)・林立夫(Dr)・今井裕(Key)・ジョン山崎(Key)/後に村上ポンタ(Dr)も参加)。
ティンパン・アレイの人脈としては、76年の鈴木茂のアルバム「Lagoon」や南こうせつのアルバム「かえり道」にも参加。75年のティン・パン・アレイのアルバム「キャラメル・ママ」の林立夫セッションが「バンブー」の雰囲気を伝える演奏らしい(ヴォーカルとキーボードで参加)。

オリエント・エクスプレス解散後はリーダー・バンドである「スクール・バンド」を結成、76年の「Our Best Songs Now」(ジョン山崎(Vo&Key)、マシュー・ザルウスキー(g)、高橋ゲタオ(b)、古田たかし(Dr))と77年の「セミ・ファイナル」の2枚のアルバムを発表している。

76年の四人囃子の「ゴールデン・ピクニック」や浜田省吾の「生まれたところを遠く離れて」にもクレジットが入ってる。

78年のDENONライヴコンサートの200回記念として「夢のスーパーセッション Jazz & Rock」というタイトルで放送されたジャズとロックのスペシャル・ライヴ(アルバム「カレイドスコープ」としてレコード化)でも、ロック・サイドのメンバーとしてミッキーに起用されて登場、ミッキーやトミー・スナイダースティーヴ・フォックスらと共演している。

79年に音楽活動に見切りをつけ、ハワイに渡り大学に入る。在学中にクリスチャンとなり、卒業後は伝道師となる。現在もハワイ在住の牧師である。
小坂忠、市原康等と共にクリスチャン・ミュージックの音楽活動もしており、アルバムもリリースされている。

2001年の浅野孝己率いる「T.P.O.」のライヴにもVocalsでゲスト参加している。

 

Writer/Editor 高崎勇輝
Special Thanks to 「日本ロック紀GS編」黒沢進氏著(シンコー・ミュージック刊)
[日本ロック大系」(白夜書房刊)
「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス(1955〜1970)黒沢進監修(シンコー・ミュージック刊)
「ロック画報07」(BI PRESS刊)

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