デイヴ 平尾 (でいぶ ひらお)
楽器 | Vocal |
コメント | グループ・サウンズの中でも指折りの実力派バンドであった「ザ・ゴールデン・カップス」のヴォーカリストとして、60年代後半のグループ・サウンズ・ムーヴメントのハードな部分を支えていた。 カップスの結成から解散まで通して在籍した唯一のメンバーである。年頭でもあり、音楽的なリーダシップは他のメンバーに譲っていたものの、いわゆる「親分」的な存在だったらしい。 45年11月17日生。横浜出身。 本名:平尾時宗(ひらお ときむね)。 愛称:時さん。 カップスのメンバーは全員ハーフと言われていたが、彼やマモル・マヌー、ミッキー吉野はハーフではない。 デイヴは66年7月3日から4ケ月程アメリカを放浪しており、この時R&Bの洗礼を受ける。海外観光渡航が自由化されたのは39年のことであり、この時代に4ケ月もライヴハウスを回るというのは非常に稀だった。この時に同じくアメリカを放浪していたエディ藩と偶然再会する。 帰国後、横浜のトップ・メンバーを集めてバンドを作ろうとマモル、ルイズルイス加部、ケネス伊東、そしてエディ藩の5人で本牧のクラブ「ゴールデン・カップ」のレギュラー・バンドとして「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」を結成する。 同バンドは当時として非常に新しいR&Bをメインにしたバンドとして、高い評価を浴びる。このバンドが67年6月にメジャー・デビューしてザ・ゴールデン・カップスとなる。68年3月にシングル「長い髪の少女」が大ヒットしアイドル的な人気を得るが、一方アルバムやライヴでは渋い選曲と確かなテクニックで一目おかれる存在となる。 カップスは様々なメンバーの変遷を経て72年1月に解散した。 デイヴは73〜74年頃にルイズルイス加部、ジョージ柳、アイ高野らと「(ニュー)ゴールデン・カップス」として京都のサパークラブ「ママリンゴ」等で昔の曲を演奏(バンド名も「横浜よいどれバンド」や「ママリンゴ」を名乗っていたこともある)、74年の郡山での「ワン・ステップ・フェスティヴァル」にも出演するが、これもやがて解散することになる。 その後ソロ・シンガーや俳優、司会者としても活動、79年には「デイヴ平尾と仲間達」というコンサートを行い、この時はミッキーや柳ジョージ等カップスのメンバーも友情出演した。 03年にはアルタミラによるカップスのドキュメンタリー映画「ザ・ゴールデン・カップス ワン・モア・タイム」の製作を機にカップスを再結成、翌04年秋までの間に何本かのライヴとテレビ出演をこなした。 デイヴの名前の由来はアメリカ放浪中に当時の人気テレビ映画の俳優デヴィッド・ジャンセンに似ているとアメリカ人に言われて、デヴィッド平尾と名乗ったことに由来している。カップスがデビューする際、「メンバー全員がハーフ」という触れ込みにされたたため、彼も本名の「平尾時宗」ではなく「デイヴ平尾」と名乗ることになったもの。 70年代半ばには「ディーブ平尾」というクレジットになっている時もある。
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Writer/Editor | 高崎勇輝 |
Special Thanks to | 「日本ロック紀GS編」黒沢進氏著(シンコー・ミュージック刊) [日本ロック大系」(白夜書房刊) 「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス(1955〜1970)」黒沢進監修(シンコー・ミュージック刊) 「ロック画報07」(BI PRESS刊) 「天使はブルースを歌う」山崎洋子氏著(毎日新聞社刊) 「みんなGSが好きだった」北島一平・中村俊夫両氏著(扶桑社文庫) ザ・ゴールデン・カップス公式サイト 「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」サン・マー・メン著(小学館刊) 「ザ・ゴールデン・カップスのすべて」和久井光司編(河出書房新社刊) |
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