Mickie Yoshino Group '74 (第三次ミッキー吉野グループ)

Member Instruments Comment
ミッキー吉野 Keyboards, Vocal   
スティーヴ・フォックス Bass, Vocal  
市原康 Drums   
ミッキー吉野のリーダーグループ。

1974年11月 にスティーヴ・フォックスがアメリカからやってきたことに伴い「ミッキー吉野グループ(第二次)」がメンバーチェンジしたもの。

このメンバーで74年12月31日の西武劇場(現パルコ劇場)で行われた「フラッシュ・コンサート」に出演した。

当時ミッキー吉野はタケカワユキヒデの デビュー・アルバム「走り去るロマン」のレコーディングに参加しており、75年1月の同アルバムのリリース後、タケのサポートをする話が出ていた。
しかし市原康はジャズ志向が強かった ため、歌伴よりはジャズがやりたいと75年にミッキー吉野グループを脱退、鈴木宏昌の「コルゲンバンド」に参加する。

後任には前年に井上尭之バンドを脱退した原田裕臣が参加、「ミッキー吉野グループ(第四次)」となる。

清水信之がこの頃のライヴを見て、感激したらしい。 「電子音楽イン・ジャパン」で、「あと影響受けたのはリチャード・ティーとミッキー吉野。ミッキー吉野グループっていうゴダイゴの原型があるんです。ほんとに洗練された素晴らしいことをやってたグループでね。 そのころの僕はもうハード・ロックの麻疹状態は終わってて、プログレみたいにキーボードがいかに上手いかっていうより。いかに洋楽に近いかっていうほうがポイントだった。 洗練されてないとダメだった。 」と絶賛していた。

また、チャーも「Char's Perfect History」という雑誌のインタビューの中で、「実際帰ってきてパルコの上でライブやった時、それはスモーキーメディスンデビューの時なんだけど、その時ミッキー吉野グループ出た時は凄い戦慄を感じたね。(そん時のミッキー吉野グループってのは誰がいたんですか?) スティーヴ・フォックスがベースで、ミッキーとあと、ドラムがいてトリオだった、確か。そん時は、自分達がやれロックだとかファンクだとか言ってるものを全然超越した世界だったのね。オリジナリティとテクニックと。俺はまだ若いアマチュアだったから、素直に受け止められたけど、逆にそれまでちんたらやってた奴にはもう駄目だと思った人もいるかもしんないよね。 (こんな凄いもんがでてきちゃった・・・みたいな) そうそう、それに対抗出来るってのが”スモーキー・メディスン”しかなかった。新しさで言えばね。ミッキーはその後に言ってるけども「俺達の時代だ」って言い切ったもんね。」と語っている。 

ちなみにこのインタビューで「スモーキー・メディスン」と「ミッキー吉野グループ」が渋谷パルコ(の中にある「西武劇場」)のフラッシュ・コンサートで共演した様に言っているのは、チャーの記憶違いである(他のインタビューでも同じことを語っているが)。 「スモーキー・メディスン」のメジャーな活動としてのデビューは確かに「フラッシュ・コンサート」であるが、これは73年末のもので、この時ミッキーはまだバークレーにおりしかもこの年末は帰国していないので、同コンサートへ参加したということはあり得ない。
スモーキーは74年夏の「ワン・ステップ・フェスティヴァル」をキャンセルして解散しているが、このライヴで「ミッキー吉野グループ(第二次)」がお目見えしているのである。 チャーは上述74年末のフラッシュ・コンサートを見に来ており、その記憶と自分が出演した73年のコンサートの記憶がごっちゃになっていると思われる。


 

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