ミッキー(Mickie/Mickey)吉野

主な担当楽器 Keyboards, Vocal
生年月日・出身 1951年12月13日 神奈川県横浜市出身。
本名 吉野 光義(よしの みつよし)。
ニックネーム ミッキー、ブー(ゴールデン・カップス時代)。
ゴダイゴのリーダー/キーボーディスト。作曲・編曲を担当。 ゴダイゴの音楽的中心。 タケカワユキヒデと並んでゴダイゴのレパートリーの大部分を生み出している。

4才からピアノを習い始める。

6才頃にカーメン・キャバレロの愛情物語に感銘、ピアニストになることを夢見る。エルヴィス・プレスリーにロックンロールの洗礼を受け、レイ・チャールズを筆頭に米国のリズムアンドブルースに興奮。 ジミー・スミスによりハモンドオルガンを知る。 ビートルズを筆頭に英国のロックバンドに衝撃を憶える。

65年に友人の野中三朗(G)やアメリカン・スクールの女生徒らと共に結成したバンド「J.Walker & Pedestrians」で初めて仕事をする。
66年には今野秀尊(G)率いる地元のセミプロバンド 「今野秀尊&ニューキャメリアス」 に参加し、ナイトクラブ・ダンスパーティ・コンサートなどで演奏活動を始める。やがてマーク園田(G)が率いるアメリカンスクールのバンド 「The Chosen Few」 にも誘われ,米軍キャンプの仕事も始める。

66〜67年、ブルース・バンド「ミッドナイト・エクスプレス・ブルース・バンド」に参加、「Bebes(ベベズ)」と改名、横浜本牧でディスコティックや米軍キャンプを中心に活動していた。

1968年「Bebes」が分裂して、ミッキー吉野は林恵文らと「フラワー・クリエーション」を結成、同年にグループ・サウンズの「ザ・ゴールデン・カップス」に加入。高校一年だったにもかかわらず、そのプレイは天才キーボーディストと注目される。ミッキー吉野の名前は当時から使用していた。 カップスにはシングル「愛する君に」とアルバム「ゴールデン・カップス Vol.2」から、シングル「にがい涙」、アルバム「フィフス・ジェネレーション」まで参加、特に後半はサウンドの要として活躍した。 カップス在籍中からスタジオ・ミュージシャンとしても活動を開始、セッションも積極的に行う様になる。 主なセッションを挙げると、成毛滋/小林勝彦と企画した10円コンサート(ミッキーはエディ藩他とのセッション・バンドで出演)、井上尭之(スパイダース)/ロニー・パリーニャ/エドモンド・フォルトゥノ(共にスナーズ)とのブルース・セッション(録音はされたがリリースされず)、ミッキー吉野グループ(第一次)等。 ソロ・アルバムの制作や成毛、つのだひろ、柳ジョージとバンドをやる話もあったが「大麻事件」でうやむやになり、カップス脱退、アメリカ行きを決意する。

70年末にカップス脱退後はスティーヴ・フォックスと「サンライズ」を結成、ビクターよりシングル「ベイビー・ホールド・オン」(ミッキー参加はA面のみ)をリリースする。その後71年6月に渡米、9月にボストンのバークレー音楽院に留学。 73年には地元の人気グループ「Flesh&Blood」 や「ダッチ・ベイカー」に在籍。 アメリカ滞在中に、日本人としてはやはり「日本」でベースを固め、それから世界に出て行きたいと考え、スティーヴと「ゴダイゴ」構想を立ち上げ帰国を決意する。

74年5月バークレー卒、同月帰国して、その後「ミッキー吉野グループ」(第二次第三次第四次第五次)を結成。ジョニー野村の依頼でタケ カワユキヒデのデビュー・アルバム「走り去るロマン」のレコーディングに参加、ツアーのバックなどをつとめ る。 75年はミッキー吉野グループを率い、沢田研二のツアー等に参加するが、同年末にタケカワユキヒデをヴォーカルに迎えゴダイゴを結成する。

力強くリズムを打ち出すピアノでのバッキングやパワフルなオルガンソロで、ギター主体のバンドが多い中キーボーディストの存在感を強く印象付けた。「デッド・エンド」等でのピアノプレイなどは素晴らしいの一言に尽きる。 エーストーンのカナリーという国産初のポータブルキーボードに始まり、69年頃日本で始めてハモンドオルガンを使用、ミッキー吉野グループ以降はローランドのアドバイザーとして、同社のシンセ開発と共に歩んできたといっても過言ではない。 冨田勲からも高く評価されており、70年の大阪万博で冨田が東芝(IHI)館向けの曲を作曲した際、ソロイストとして招かれ、読売交響楽団をバックにハモンドを弾いたこともある(非売品シングルが残されている)。実現はしなかったが、映画「地獄の黙示録」で冨田がメインの音楽、ゴダイゴがロックパートをやるという企画もあったとのこと。

アレンジャーとしても当時坂本龍一、井上鑑等と共に一世を風靡した。

ゴダイゴ在籍中もPAN、デビュー等ソロ・プロジェクトを展開、解散後はPAN SCHOOL OF MUSICを創設し、校長に就任(その後カップス時代に続き2回目のクスリ事件で辞任・小林亜星にバトンタッチする)した他、ソロ・アルバムを発表しながら作・編曲家、プロデューサー、ゲスト・プレイヤーとして活動している。 グループ・サウンズ関連のイベントにもアレンジャー/プレイヤーとして参加している。

Charや萩原健一との交流は有名で、レコーディングやライヴに参加している。最近ではセッション中心のライヴ、ジョー山中のアルバムでのソングライティング、アレンジ、演奏、プロデュースの全面参加、また東京(大阪・福岡)スクール・オブ’・ミュージックのエデュケーショナル・サポーターとしても活動している。 中国や仏教への興味が強いらしく、映画「マジック・カプセル」で座禅を組んでいたり、ソロ・プロジェクトで発表している「Return to China」や「のんびり一番 ”自由自在"」、「ゴダイゴ記」のライナーや歌詞でもそれが伺える。

ミッキーはよくテレビ等で「優しそう」と言われ、国際児童年のテーマをやったりして黒柳徹子等からも持ち上げられていたが、実は不良バンドと言われたカップスからスタートしており、本人も悪(ワル)でありたい部分と、パブリックなイメージとなってしまった「善い人」の間で揺れ動いている部分が彼のインタビューでの発言等を通読すると感じられる。 最後にチャーがインタビューでミッキーを評した時のコメントを引用したい。 「ミッキーはほっとくとどんどん譜面の世界になってしまう人なんだよ。プログレっていうか。 でも遊んでいるとただの横浜の不良っていうか(笑)。(中略) でもミッキーはインプロヴィゼイションっていうか、ソロにメロディを付けられる人なんだよ。 そういうキーボーディストっていなくなってきてるし、ロックのキーボード・プレイヤーも少なくなってきているしさ。」

名前の表記は、カップス時代はMickey、ゴダイゴ時代はMickie、ゴダイゴ後のソロはMickeyとなっている。 1999〜2000年の再結成時の表記はまたMickieに戻っている。

06年にゴダイゴのデビュー30周年を迎え、ついにゴダイゴを再始動させた。

 

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