陳 信輝 (ちん しんき)

ギタリスト。

「パワー・ハウス」、「フード・ブレイン」、「スピード・グルー&シンキ」等、日本のブルース・ロックのハードな部分を支えたギタリスト。

49年5月30日生。横浜出身。O型。

63年、14才の時にギターを弾き始める。
66年竹村栄二(チー坊)、加部正義(後のルイズルイス加部)とヤードバーズ等をレパートリーとする「ミッドナイト・エクスプレス・ブルース・バンド」を結成する。 最初は陳がドラムで加部がギター、竹村がヴォーカルだった。同年12月、加部が「グループ・アンド・アイ」(後の「ザ・ゴールデン・カップス」)に参加するため脱退、陳はギターに転向する(この時のキーボードがミッキー吉野)。

「ミッドナイト〜」は67年にバンド名を「ベベズ(BeBes)」とする。 横浜・関内の中川一郎ディスコティック等に出演していたが、68年に解散となる。  その後陳は柳譲治と野木信一のいた横浜のバンド「ムー」に加わるが、ヴォーカルの関口の脱退の際に竹村も誘い、68年末の時点ではバンド名も再び「ベベズ」になる。 ベベズ(第二期)は米軍キャンプ、横浜・東京のジャズ喫茶などでサイケデリックとブルースをブレンドしたサウンドをレパートリーとして演奏している内に、「パワーハウス」(西山の脱退で柳がベース転向)となり、69年4月に東芝からメジャー・デビューする。 

パワーハウスは横浜の本格派ブルース・バンドとしてカップスと並び玄人筋には注目される。 カップスの「スーパー・ライヴ・セッション」には柳譲治と共に参加、「ゼンのブルース」でセッションを繰り広げている。またミッキー吉野は逆にパワーハウスのレコーディングに参加していた。 しかしパワーハウスはシブイ選曲でしかやらなかったこともあり、商業的には成功せずにシングル1枚、アルバム1枚を残して70年3月に解散する解散する。 

続いて陳は柳田ヒロ、角田ひろ、石川恵と「フード・ブレイン」を結成、70年には若松孝二監督の映画「新宿マッド」のサントラを担当する。同年10月にはベースが加部正義に交代してアルバム「晩餐」をリリースするが、スーパー・バンドの常としてこれで解散する。フード・ブレインの演奏は「重戦車の様だ」と例えられた程パワフルなものだった。

71年1月には「陳信輝ウィズ・フレンズ」としてソロ・アルバム「SHINKI CHEN」をリリース、これには加部正義、野木信一、柳譲治、ジョン山崎、柳田ヒロが参加している。この後、陳は元ワイルド・ワンズの渡辺茂樹、PYGを脱退した大口ひろしと「オレンジ」なるトリオを結成するが短命に終わり、加部正義、ジョーイ・スミスと「スピード・グルー&シンキ」を結成する。このトリオはシングル2枚、アルバム2枚を製作しており、セカンド・アルバムでは幻の「オレンジ」の3人の演奏を聞くことが出来る。

「スピード〜」も72年で解散となり、その後はセッション活動を中心に活動する。74年の郡山ワンステップ・フェスティヴァルには「陳信輝グループ」で出演している。 時期は不明だが、パワーハウス時代の盟友竹村と共に「The Mojos」に在籍した。

現在は演奏活動からは退いているが、楽器店、貸しスタジオ、音楽学校にライヴハウスと手広く経営し、次世代アーティストの育成に携わっている。

また2004年に公開されたアルタミラ・ピクチャーズの映画「ザ・ゴールデン・カップス ワン・モア・タイム」にも出演し、当時の思い出を語っていた。

 

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