チャーwithゴダイゴ

コダイゴのヒストリーを辿ると、78年の「ガンダーラ」によるブレイクの直前に「チャーとのジョイントによる全国コンサートツアー」の記述が見られる。 これが所謂「チャーwithゴダイゴ」である。本コラムはこのユニットにスポットを当ててみた。 このユニットの活動歴については「Works of チャーwithゴダイゴ」を参照されたい。

 

チャーとミッキーの出会い

チャーwithゴダイゴは、もともとミッキー吉野とチャーの出会いから始まる。

チャーは「ショック」、「バッド・シーン」等を経て結成された「スモーキー・メディスン」(G:チャー/B:鳴瀬善博/Vo:金子マリ/Key:佐藤準/Dr:藤井章司)で72年頃から「天才ギタリスト」として注目を集める(チャーは当時17、18才)。

ミッキーは4才年上だが、更に早熟で68年、高校一年生の時に「ザ・ゴールデン・カップス」に参加し、こちらも「天才キーボーディスト」としてグループ・サウンズを代表するプレイヤーとなる。 チャーがスモーキー・メディスンで注目を集めだした頃はまだバークリー音楽院に在籍していた。 スモーキー・メディスンがメジャーなロック・シーンに登場するのは、73年末の西武劇場での「フラッシュ・コンサート」である。チャーのインタビューでの当時の回想で「デビューしたのがフラッシュ・コンサートで、ミッキー吉野グループもその時出演していた」等と語られていることが時々あるが、これはチャーの記憶違いである。 

ミッキーは74年の春にバークリーを卒業して帰国、夏から「第二次ミッキー吉野グループ」を結成し本格的な活動を開始する。 ミッキー吉野グループとスモーキー・メディスンの共演となるはずだったのが74年夏の「ワンステップ・フェスティヴァル」だったが、この直前にスモーキーが解散してしまったため、実現しなかった。 74年末のフラッシュ・コンサートにはミッキーはスティーヴ・フォックスの参加する「第三次ミッキー吉野グループ」で出演する。この時チャーは客席で見ていたらしい。この時のチャーは「凄い戦慄を感じたね。(中略)自分達がやれロックだとかファンクだとか言ってるものを全然超越した世界だったのね。オリジナリティとテクニックと。 それに対抗出来るってのが”スモーキー・メディスン”しかなかった。新しさで言えばね。ミッキーはその後に言ってるけども『俺達の時代だ』って言い切ったもんね。」と語っている。 

その後、デビュー直後のゴダイゴとチャーがバックに参加していた浜田良美、そしてサンハウスの3バンドでプロモーションのツアーを行う等、チャーとミッキーの接点が生まれてくる。 

 

コラボレーションの開始
チャーが76年にソロ・デビューした際、キャニオン・レコードでチャー、山内テツ、絵夢の3人が同じ「SEE SAW」レーベルに在籍することになる。 ミッキー吉野、浅野孝己、スティーヴ・フォックスの3人(と原田裕臣)はこの時リリースされた山内テツのソロ・アルバム「ききょう」に参加している。

チャーは最初のソロ・アルバムを自分でアメリカに行って探したメンバー(Key&Vo:ジェリー・マーゴシアン/B:ジョージ・マスティッチ/Dr:ロバート・ブリル)+昔馴染みの佐藤準(Key)というメンバーで製作したが、結局バンドを維持出来なかった。

77年2月に「激突3大ギタリスト夢の競演」というイベントが後楽園球場で行われ、チャーがこの3大ギタリストの一人として出演した際のバックはミッキー、浅野、スティーヴ、そしてロバート・ブリルとなっている。

その後77年6月にリリースした「気絶する程悩ましい」が大ヒット、「逆光線」「闘牛士」とヒットを飛ばすチャーのいわゆる「アイドル期」が始まる。 この頃のバック・バンドは辻野リューベン(Dr)やダニー・マトラッツォ(Key)等が入るが、演奏力の不足からレコーディングメンバーとバックバンドは別にせざるを得ない状況にフラストレーションが溜まっていた。 

78年初にFM東京のスタジオ・ライヴ番組「DENONライヴ・コンサート」の200回記念企画の一環としてミッキーがロック・サイドのセッションの企画を担当した際に、チャーがメインで参加したことがある(正確にはチャーの参加は199回目)。 この時の演奏はチャーにとっても刺激的だったらしく、チャーはミッキー、スティーヴ、トミー・スナイダーの3人と共に活動することを希望する。 レコーディングでの共演は78年7月リリースのソロ・アルバム「Thrill」のB面で実現するが、コンサートでのバックバンドとしての3人の起用はジョニー野村から「No」が入る。 ジョニーの立場からすればミッキー達のバラ売りは意味がなく、「ゴダイゴ」としてバックを担当するのではないと受けられないということだった。 この結果生まれたのが「チャーwithゴダイゴ」なのである。

 

チャーにとっての「チャーwithゴダイゴ」
創造面から言えば、演奏力が強化されたことのプラスは(少なくとも当初は)大きかったと思われる。 ギターが2本と音が厚くなった分、ミッキー吉野のキーボードの自由さが増し、エレピにオルガンにシンセにと大活躍である。 この時期のミッキーのプレイの充実感はやはり相当なものがあり、チャーもギターでバックを引っ張るところから、煽られるものを感じたのではないかと推測される。 スティーヴとトミーのリズムセクションは緻密とは言えないがワイルドで、特にトミー・スナイダーのコーラスへの参加の比重が少なく、彼がその分ドラムに専念出来たことはリズムの安定感を増している。

曲作りも、チャーとトミーの共作で詞の表現の幅が広がり、アレンジもプログレ的な「キメ」の多用が目立ってくる。例えば「トゥモロウ・イズ・カミング・フォー・ミー」等がよい例である。 しかし、チャーにとってはこの演奏面での充実が新たなジレンマを生んでいったことが推測される。

ツアーの初日の後のインタビューでは、「これからだよ、何ができるのか見えてくるのは。ただ、オレもミッキーも”集まったからやろうよ”って感じで始めたんじゃないからね。ゴダイゴの連中がどんなヤツらかもわからないわけじゃない。結局、オレもゴダイゴも全然違うものを持った人間の集合だからね。お互い音楽的趣味なんかで一致しているわけじゃないもの。でも、それでもオレたちが一緒にやっていけるのは、全員が”何かをやってやろう”というエネルギーを持っているからだと思うね。それが6人の接点になっているんだよ。今は、その接点をもとにしてステージをやるごとに....という状態だね。(中略) (今回のツアーが終わった後は)バンドを組みたいね。パーマネントなやつね。ただ、ゴダイゴは日本で最高のミュージシャンが集まったグループだから、連中とやった次は、もう外国でメンバーを探さなくちゃならないね。」と語っている。

ところが、実際にツアーが始まってみると、チャーがより強く感じたのはバックバンドでありながら自分が主導権を取れないということだった。 ゴダイゴは曲作りから演奏から全て自分で完結しており、(知名度ということを除いては)ある種対等な位置をキープしていた。 プロダクションの充実においても、好きな様にはやらしてくれるがある種アマチュア的に詰めの甘いチャーのプロダクションに対し、ジョニー野村の「ゴダイゴをメジャーにする」ということに強力にポイントを置いた動きは相当差があったと言えるだろう。 その結果、ライヴを重ねても、チャーは「自分が次に何をやるか」が見えてこない状況に変わりは無く、(彼にしてみれば)ゴダイゴはその横で着実に足場を固めていっている、それも自分のステージを使って....。 これはチャーに取って相当辛いことだった様である。

チャーが当時を回想するインタビューでも、「(ゴダイゴには)いいところをとられたよね。オレが残しておきたかった部分は残したし、音楽的な部分であるとか、バンド単位であるとか、またタケカワユキヒデを前に出す感じであるとか、ジョニー野村なんかその辺をすごくシビアに、アメリカン・ビジネスを確立した。ある種うらやましかったよね。ツアー中でも、よくミーティングになったんだけど、オレも包み隠さず何でも言うほうだから、こういうのヤダとか言って....。バンド単位でこられちゃうんだよね。ミッキーと電話で話していても、俺はバンドがこういう方向でやりたいんだから、こういうふうにやりたいみたいな。そういうのって、1対1万みたいな孤独さ。じゃあ、いいやって。そこでオレがもっと割り切って、「うるせえ、こっちが金払ってお前やらせてるんだから、冗談じゃない」と言っても良かったんだろうけど、オレもそういうところは気が弱いから。「じゃあ、前半40分あげます」みたいな。だから余計煮詰まっていったよね、オレは。だからすごく凝縮されたところで。だからあの頃のライヴのテープとか聞くと、すごいものがあるね。鬼気迫るものが。オレじゃないものがとりついているみたいな。孤独なただの少年だったんだよね。そういうことは誰もわからなかったんだね。オレにすら。それでアイツら本当に絵に描いたようにというか、譜面通りそれが終わったら終わりなわけよ。オレはもうちょっと続けていたいなと思ったけど。ヤツらはヤツらの方向性があったんだよな。10月で終わり。そのあとの話はそこでするしかない。でもオレは宙ぶらりんだし。かといってもう1回バンド作るのも面倒くさいし。もうパーマネントなもの作るしかないなと思って。」と、その複雑な心境を吐露している。 レコードの売り上げやツアーの動員も後発組の原田真二やツイストに押されて落ち込みつつあり、「こんなはずじゃないんだ」という気持ちが強かったはずである。

例えて言うなら、当時のチャーは60年代のボブ・ディラン&ザ・バンドの様な形を目指してチャーWithゴダイゴでツアーをしたかったのかもしれないが、結果的には80年代のボブ・ディラン+トム・ペティ&ハートブレーカーズの様な感じになってしまったのだと思う。 ボブ・ディランとザ・バンドは主導権をディランが握っており、ディランはその触発される様にロッカーとしての自我を形成していったが、ディランとトム・ペティ&ハートブレーカーズは両者が完全に別々の存在だった。80年代のディランの様にチャーの側に余裕があればさして問題にならなかったことだが、当時我が道を模索してたチャーには負担だったのだろう。 60年代半ばにプロテスト・シンガーからロッカーへの道を模索していたボブ・ディランが、ザ・バンドを得る代わりにザ・ビートルズと組んでいたら、という仮定をしてみたら、この状況が理解出来るかもしれない。 ツアー最終日の武道館ではアンコールの途中でキレてギターを放り投げて帰ってしまったというエピソードもあるらしい。その時の怒りは直接的には「闘牛士」等を演奏させたがるマスコミに対して向けられたものらしいが、本人も言っている通り、精神的にはかなりヤバい状態だったことは間違いないだろう。

 

ゴダイゴのメンバーにとっての「チャーwithゴダイゴ」
(ミッキー吉野)
78年はチャーにとって試練の年だったが、ゴダイゴにとっても正念場と言える時期だった。
チャーからすれば「アメリカン・スタイル」で着実に足場を固めている様に見えていたとしても、ゴダイゴとしても苦しかったのは間違いない。 当時は、「ロック」がビジネスとして成立していない頃の話である。 フォーク/ニューミュージック全盛の時代であり、今でこそ再評価されている「ファニー・カンパニー」、「ウェスト・ロード・ブルース・バンド」、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」等もアルバム1〜3枚位で解散しているのは、もちろん様々な要因はあるだろうが、当時はバンドを(ビジネスとして)維持するのが非常に難しかったということも大きかったろう。 それぞれがギターケース(やコンガ)を抱えて、電車で移動すればツアーが出来たアリスやふきのとうとは大分違うのである。

ゴダイゴの様に「英語で唄う」「日本のバンド」が市民権を得るのは難しかっただろう。「洋楽としてのロック」は、「メロディ1:サウンド1:歌詞0.5」という様に、歌詞の比重が比較的小さかった。 だって英語の歌詞を聞き取ることはもちろん、読んだって理解することが出来ない人口の比重が非常に大きい時代だったのだ。 一方「国内でのニューミュージック」は「メロディ1:歌詞:1サウンド0.5」で、美しいメロディと心に染みる歌詞が「売れる」ための要因だった。当時は売られている楽譜と言えば「ギター弾き語り譜」で、それをフォーク・ギターで弾き語るのが普通だったのがその証拠であり、ミュージシャンもレコードでシンガー本人がギターを弾くことは少なかった。 国内では70年代はまだサウンド冬の時代だったと言えるだろう。 そんな中で、歌詞の代わりにサウンドをメインに持ってきているゴダイゴは「劇伴」や「CMソング」の世界を抜けて売れるには、相当ハードルが高かったと言える。 

また、タケカワユキヒデはヴォーカリストのためスタジオ・ワークは出来ず、ミッキー吉野以外の3人はスタジオ・ミュージシャンとしてのコネを持っていない状況では、スタジオ・ワークを取ってくるのも実質的にはミッキーの双肩にかかっており、バンドを維持するのは相当大変だっただろう。 ミッキーもこの負担は相当感じていたはずで、「インターミッション」のビデオに収録されているインタビューで「ガンダーラがヒットしなかったら一旦活動を停止しようと思った」というのは故なきことではなかったろう。 コンサートの半分をバックバンドが単独でやるというのは、確かに普通ではないが、 しかし勝負をかけた「西遊記」のリリース前という状況では、ジョニーとミッキーとしても単なる「チャーのバックバンド」では済まされなかったのである。

 

(スティーヴ・フォックス)
自らを語ることの比較的少ないスティーヴ・フォックスが唯一まとまった話をしているのが、彼の半生記である「Who am I?」(クレスト社)である。 この中でわずかながら、チャーとのジョイントのことが語られているので引用してみよう。

 「僕はタケに全然不満はなかったけど、でも僕のやりたいスタイルのロックとは少し違う、そういう気はしていた。 ゴダイゴがデビューしてから、チャーとゴダイゴが共演したことがあるんだ。チャーとは物凄く気が合った。音楽の志向も似ていた。ハード・ロックでね。ミッキーは、シビアな、リズム・アンド・ブルースのテーストがあるロック、タケはビートルズのような、ポップな感じ。それぞれが違うから、うまくいったのだろうけれど、たとえば、チャーとゴダイゴがやっていたら全然違っていたなって、その時、思った。 もう、すっかりタケもゴダイゴのメンバーになっていたから、冗談で言えたことだけど、『おいおい、チャーと組んでたほうがゴダイゴ凄かったんじゃないの?』なんて話したよ。僕はちょっと本気だったけどね。」

確かに78年の24時間テレビの「ミッドナイト・ロックコンサート」では、スティーヴとチャーのすごく息の合った演奏を見ることが出来る。

 

(トミー・スナイダー)
トミー・スナイダーはこの「チャーwithゴダイゴ」の時期において、チャーと最も接点の多かったメンバーである。 チャーも後のインタビューで「もちろんミッキーとの出会いも大きかったけど、トミーとの出会いが大きくて、2枚目3枚目ってのはトミーが詞書いてるのが多くて(注:実は3枚目のみ)、”Wondering Again”なんかもトミーなしでは考えられなかったし。そういう意味ではミッキーとはプライベートの交流ってのはあんまりなかったけど、トミーはしょっちゅう俺ん家泊まりに来てて....。」と語っている。 また、「いい意味ですごく俺が作ろうとしている物に前向きだったから。ソングライターとして、コンポーザーとして。ミッキーはやっぱりアレンジャー、プレイヤーという立場だったけど、トミーはコンポーザーとして助けてくれたね。(中略)プロデューサーとしても役割ってのもあったと思う。(中略)俺の方が、その意味ではより多くトミーと仕事してんだよ。{中略)彼はありとあらゆるアイディアを俺にくれたというか、そういう意味ではタイミングよくトミーと会えて”Wondering Again”が出来たかな、と思う。」とも言っている。

トミーは後のソロ活動でのスタンスでも明らかだが、ドラマーというよりは、シンガー・ソングライターでありたいという意識が強く、来日時も相当曲のストックを持ってきたものの、ゴダイゴではレコードに収録される曲にはあまり採用されなかった。彼としてはそのことについてはフラストレーションが(この時点で既に)たまっていたのかもしれない。そして評価してくれるチャーに傾倒したのだろう。

チャーがソングライターとしてのトミーを尊重していたことは、ツアー初日のセットリストにトミーによる「チェインジング・ドリーム」の弾き語りが入っていることからも伺える(同時期のゴダイゴ単独コンサートのセットリストでは見られないことである)。 浅野孝己の「日本ロック体系」でのインタビューでも、トミーがチャーと仲良くなっちゃって、といったことを語っている。 スティーヴの「Who am I?」でも当初タケカワユキヒデとトミーの折り合いは良くなかったと語られており、トミーとしてはチャーにゴダイゴに入って欲しいという気持ちがあったことは十分考えられる。

 

(タケカワユキヒデ)
タケカワは78年9月のインタビューで次のように語っている。

「チャーを見てて、ともかくいいギターだと思ってたし、カッコいいなと思っていたし、それにああようやるなと思っていたところもあったけどね。 ただ、あまりにも僕と対照的なところがあってね。 どっちかというと、僕はあんまり気にしなかったんだけど、あいつの方がやりにくいというところが大分あったみたいね。」

ヴォーカリストとしての立場がかぶることに加え、チャーとしては元々ゴダイゴではなくミッキー吉野、スティーヴ・フォックス、トミー・スナイダーの3人と組みたいと言う気があったので、当時の発言はその辺の緊張感をやや反映させているところもあると思われる。

 

(浅野孝己)
このプロジェクトでいちばん割を食っていたのはもちろん浅野孝己である。 浅野氏とてチャーがまだアマチュアだった時代に既に「エム」のメンバーとして活躍していたこともあり、バンドの仕事とは言えサイド・ギタリストとしてのポジションはあまり有難くなかったであろう。

特に浅野は「動」のギタリストというよりは「静」のギタリストであり、派手なプレイよりはクールかつシャープにバッキングをキメたりするタイプのプレーヤーである。チャーの様に歯でギターを弾いたり暴力的なアーミングなどインパクトの強いスタイルのプレーをするギタリストの脇に回ると、どうしても地味な存在になってしまう。 スティーヴ・フォックスも「僕はよくてもアサノはプレイしてて困ってた。ギタリストとして、チャーとはスタイルが違い過ぎて合わない。結局、あの時のゴダイゴはあのメンバーしかなかったんだと思う」と言っているし、浅野本人のインタビューでも、トミーとチャーが接近してチャーをゴダイゴに誘っていたという下りのコメントはかなり辛らつである。 

ファンクラブ会報12号で「去年(78年)の反省は?」という質問にも浅野だけ「笑顔が戻らなかった。仕事は楽しくしたい」と語っている。 チャーのファン・サイトでこの「チャーwithゴダイゴ」の時期の音源等が批評される場合に、どうしても「ゴダイゴ単独よりギターがカッコ良い」といったコメントが多くなるが、これには素直にうなづけないものがある。確かにチャーのギターはカッコ良い。それはジェフ・ベックの様にカッコ良い。浅野は、キャラクターの所為もあって「派手さ」ではチャーには太刀打ち出来ないかもしれない。しかし、ビートルズやストーンズにジェフ・ベックが入ってサウンドがもっとカッコ良くなったかと言えば、そうとは限らないであろう。例えば「モンキー・マジック」はギター・ソロで聞かせる曲ではないのだ。あれはドライヴの聞いたカッティングで聞かせる曲なのである。

 

総括
チャーwithゴダイゴのツアーはチャーとしては非常に辛い時期ではあった。当時芸能界の非アーティスティックなペースに疲れきっているところに、このフラストレーションが重なりかなりヤバイ感じになっていたと思われる。

この後取り沙汰された「大麻事件」はチャーのアイドルとしての活動には完全にピリオドを打つことになり彼としては辛い時期だったが、考えようによっては「アイドルの負の遺産」を引き摺らずに「ジョニー・ルイス&チャー」で再始動出来たということは、後から見れば良いことだったのかもしれない。 何よりもチャーにルイズルイス加部と組むことを進めたのはミッキーであり、チャー、ミッキー、スティーヴ&トミーという最初の希望は叶えられない代わりに、後のチャーの成功に繋がる提案をしたと言えるだろう。

ゴダイゴはこの後記録的な大ヒットを飛ばし、アイドルとしての成功度はチャーを遥かに凌駕するが、チャーの様にアイドル的な売れ方と決別することが出来なかったがために未だにテレビで4回に1回はビューティフル・ネームを演奏させられてしまうというのは残念なことである。

このプロジェクトは、日本ロック史の中ではあまり語られることが多くないが、今では至極当たり前になったロック・バンドのテレビ出演をツイストやサザンに先駆け行いスタジオにロックの機材を大々的に持ち込んだということでは、もっと評価されてしかるべきだろう。 当時テレビに背を向けていたフォーク/ニューミュージック系のアーティストも今では(ビデオクリップ等も含めれば)何らかの形でテレビという媒体に出演している。 テレビに背を向けるという当時のスタイルを否定するものではないし、それはそれで賢い選択ではあった。 しかし当時のチャーとゴダイゴは、結果的に傷つく部分の方が多かったにせよ、黎明期に敢えてこの媒体に果敢に挑んだロッカーだったのである。

 

 

TOPへ