|
GODIEGO BIOGRAPHY |
| ゴダイゴは70年代半ばから80年代半ばにかけて日本を中心に活動したポップ/ロック・バンドである。79年には「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」等の大ヒットでブレイクし、日本のヒットチャートに英語の歌詞を取り入れた曲を何曲も送り込み、しかもそれが小学生等の子供達に支持されるという特異な現象を生み出した。 | |||
ゴダイゴを語る上でキーパーソンとなるのがリーダーのミッキー吉野である。 ミッキーは横浜出身で、中学生の頃から米軍キャンプ等で演奏しており、1968年若干15歳にしてグループ・サウンズ (GS)の中でも演奏力の高さで知られた「ザ・ゴールデン・カップス」にキーボーディストとして加入、プロとしてのキャリアを開始する。 ゴールデン・カップスではヒット性の強い「愛する君に」から、テープ編集を駆使したアーティスティックなアルバム「フィフス・ジェネレーション」に至るまで、後期カップスの音楽的なキーパーソンとして活躍した。また当時のグループ・サウンズのレコードの多くは実はミッキーが演奏で参加している。この頃、 後にゴダイゴの初代ベーシストとなるスティーヴ・フォックスは横浜のアマチュア・ミュージシャンであり、初めてミッキーと出会うことになる。 |
|
||
|
当時15歳のミッキー吉野(真ん中の後列) |
|||
|
エムの唯一のシングル「時は今ここに」(オリジナル曲)。 |
|
ゴダイゴのギタリストである浅野孝己も中学生の頃からジュニア・テンプターズ、ジュニア・モップスといったGSの弟分バンドに在籍した後、ニュー・ロックでカルトな人気バンドとなったエム("THE
M")を結成し、ロック・フェスティバル等で度々カップスと共演していた。
|
|
|
70年末にザ・ゴールデン・カップスのメンバーが大麻事件への関与で取調べを受け、当時未成年だったミッキー吉野は2年間の芸能活動休止を余儀なくされることになる。このためカップスを脱退したミッキーは音楽を更に深く学ぶために、ボストンのバークリー音楽院への留学を決意する。
新学期を待つまでの間、
横浜のアメリカン・スクールの学生と「サンライズ」というバンドを結成するが、1曲をレコーディングしたのみで渡米する。このサンライズにはスティーヴ・フォックスや
、後にドン・ヘンリーのバンド等に参加するフランク・シムズが在籍していた。71年6月のことである。 |
|
||
![]() |
ミッキー吉野とスティーヴ・フォックスの初レコーディングはこの「サンライズ」のシングルのB面だった。 A面はミッキーがアメリカに行った後、スティーヴがザ・ゴールデン・カップスの面々と録音したもの。
|
||
|
地元の新聞にも日本の人気バンド「ザ・ゴールデン・カップス」に在籍していた才能あるピアニストがやってきた、と採り上げられた。
|
![]() |
ミッキー吉野はバークリー音楽院の2年に編入し、ジャズを中心にピアノとアレンジのクラスを取り、地元のバンド「フレッシュ・アンド・ブラッド」に参加する。スティーヴ・フォックスは家庭の事情で横浜からテキサスに引っ越していたが、ミッキーに呼ばれてボストンに行き、バンドに参加、やがて「ダッチベイカー」というバンドに発展する。この頃からミッキーはアメリカに定住するのではなく、日本を活動の中心として世界に出て行くことを夢見て、スティーヴと”ゴダイゴ”の構想を温めていた。彼らは当時ニュー・イングランドのコミューンにあるプロダクションと契約しており、後にゴダイゴの2代目ドラマーとなるトミー・スナイダーはこのコミューンのバンド「スピリット・イン・フレッシュ」に在籍していた。
|
|
| トミー・スナイダーはニュー・イングランド出身で、父親(シド・スナイダー)がピアニストだったこともあり、幼い頃からクラブでドラムを叩いていた。TOTOのジェフ・ポーカロの父ジョー・ポーカロは西海岸に移住する前にマサチューセッツに住んでおり、トミーはジョー・ポーカロからパーカッションの手ほどきを受けたことがある。シニア・ハイスクールの時に「オーフィアス」というバンドに参加し、本格的に演奏活動を開始、「スピリット・イン・フレッシュ」では同名のアルバムもリリースしている。 |
|
「スピリット・イン・フレッシュ」の唯一のアルバム。 トミー・スナイダーはパーカッションでクレジットされているが、ドラムも一部叩いている・
|
|
|
74年夏、ミッキーはバークリーを卒業して日本に戻り、アイ高野(Ex.
カーナビーツ、ザ・ゴールデン・カップス)、藤井真一(Ex.
「つのだひろとスペースバンド」)、エドワード・リーと「ミッキー吉野グループ」として活動を開始、郡山のワン・ステップ・フェスティバルや西武劇場(今のPARCO)のフラッシュ・コンサートに出演し、聴衆に強い印象を与える。
|
|
||
|
郡山ワン・ステップ・フェスティバルでのミッキー吉野グループ |
|||
|
11月にはスティーヴ・フォックスも来日し、ミッキー吉野グループはミッキー、スティーヴにジャズ・ドラマーの市原康(Ex. ブラウンライス)の3人にメンバーチェンジする。 |
|||
|
浅野が在籍した「チャコとヘルス・エンジェル」のセカンド・アルバム。
|
![]() |
一方、浅野孝己はエム解散後、アイドル系ネオGSバンド「チャコとヘルス・エンジェル」に参加する。
|
|
|
同じ頃、浅野孝己の実弟であるドラマー浅野良治は、山本達彦、横内タケらと「オレンジ」を結成して日本テレビの「キンキン
ムッシュのザ・チャレンジ」に応募し優勝、シングル・デビューを飾り、その後かまやつひろしのバックバンドとなる。
|
|
オレンジ唯一のレコード。80年代に人気シティ・ポップス・シンガーとなった山本達彦や、TENSAW、佐野元春とハートランド等に在籍した横内タケ等もジャケットに写っている。
|
|
|
この頃、ゴダイゴのもう一つの顔となるタケカワユキヒデは、東京外語大に在学中、英語で歌ったデモ・テープをレコード会社に送っていた。当時「ロックは日本語でやるか、英語でやるか」という論争は既に終わりにさしかかっており、英語で歌うのはニュー・ロックの流れを汲むミュージシャンに限られていた。 タケカワは「ニュー・ロック」というムーヴメントとは全く縁がなかったが、ビートルズに影響されてバンドを始めた彼は、あくまで「英語で歌う」ということにこだわり続け、 「日本語で歌うなら契約する」というレコード会社のオファーを全て蹴っていたため、自らデビューの機会を遠ざけていた。
|
|||
|
そして最後にタケカワが出会ったのが当時MCAの日本支社(レヴュー・ジャパン)に在籍していたジョニー野村である。ジョニーは横浜出身の元ドラマーでザ・ゴールデン・カップスの面々とも親交があり、カップス結成時にはエディ藩からドラマーとして誘われたこともあった。ジョニーとミッキーの出会いもこの頃である。
|
|
タケカワユキヒデを発掘し、かつミッキー吉野と結び付けたゴダイゴの「仕掛け人」ジョニー野村。 ミッキーが在籍していた「ザ・ゴールデン・カップス」のメンバーの友人で、カップス結成時にドラマーとして誘われたこともあった。
|
|
|
ジョニー野村 |
|||
|
|
ジョニーはタケカワのメロディ・メーカーとしての才能を見抜き、契約する。しかし、タケカワの作詞は韻を重視するあまり「英語」としての形を成していなかったため、作詞家として奈良橋が起用され、ジョニー野村プロデュース、タケカワ
ユキヒデ作曲、奈良橋陽子作詞というゴダイゴのソングライティング・チームが形成される。
|
|
ソロ・デビュー時のタケカワのプロモーション写真。 |
|
彼らは74年にタケカワのデビュー・アルバム「走り去るロマン」の製作を開始する。しかしタケカワは自身がプレイヤーでないため、演奏者に想いを伝えることがうまく出来ず、アルバム作りは難航する。そこへジョニーの元に、ミッキー吉野がバークリーから戻ってくるという連絡が入る。 ジョニーはMCAとミッキーの間で作家契約を結ぶと共に、タケカワのアルバムへの参加を依頼、ここにタケカワとミッキーの出会いが生まれるのである。
|
|
|
ミッキー吉野は、タケカワのアルバム「走り去るロマン」レコーディング・セッションの後半にキーボードとアレンジで参加する。後のタケカワの回想では、今までどんな風にしたいのかプレイヤー達にどんなに説明しても伝わらなかったのが、ミッキーが「ああ、わかった」と言って、演奏者達の間を回ると、いきなりちゃんとした音になってしまうことに驚いたと語られている。しかし当時ミッキーはタケカワのことを「ポップ・シンガー」と考えており、「ローリング・ストーンズ+ウェザー・リポート」という音楽を志向していた彼は、タケカワとバンドを組むことは考えていなかったという。 もっとも、この頃ミッキーが録音したデモ・テープには、バークリー時代のミッキーの友人で現在はギリシャでシンガー・ソングライター/プロデューサーとして活躍しているテリー・シガノスと共に、タケカワユキヒデもヴォーカルで参加している。
|
|
|
75年初にはタケカワのデビュー・アルバム「走り去るロマン」がリリースされ、レコード・セールスは全く振るわなかったものの、「ニューミュージック・マガジン」等一部のロック誌ではその新鮮さが注目される。
|
|
|
タケカワユキヒデのデビュー・アルバム「走り去るロマン」。 |
|
![]() |
アルバム発売を受けて行われたタケカワユキヒデのソロ・ツアー(タケカワユキヒデ・リサイタル「走り去るロマン」)はミッキー吉野グループ(ミッキー、スティーヴにドラマーは原田裕臣(Ex.
ミッキー・カーティスとサムライズ、井上堯之バンド)に交代)が務め、ツアー最終日にはチャコとヘルスエンジェルを解散した浅野孝己も参加して、「ゴダイゴ」の形が整うことになる。
|
|
|
|
|
タケカワユキヒデ&ミッキー吉野グループ |
「走り去るロマン」ツアーのパンフレット。 |
|
|
|||
|
ミッキー吉野グループが井上堯之バンドとジョイントで参加した沢田研二の「比叡山コンサート」を収録したライヴ・アルバム。
|
![]() |
ミッキー吉野グループがバッキングを担当したタケカワユキヒデのシングル「アンクル・ジョン」。
|
![]() |
|
75年秋、タケカワユキヒデは2ndアルバム「新創世紀」の製作に着手、演奏にはミッキー吉野グループが参加する。この製作過程の中で、ミッキーはタケカワとバンドを結成することを意識し、タケカワもこれに同意する。
|
|||
![]() |
![]() |
ゴダイゴは76年4月1日にシングル「僕のサラダガール」をリリースしてレコード・デビュー。本作はカネボウのキャンペーン・ソングとして製作され、約8千枚のセールスと好調な滑り出しだった。
そして同年7月にはデビュー・アルバム「ゴダイゴ(組曲:新創世紀)」がリリースされた。
|
|
|
デビュー・シングル |
1stアルバム |
||
|
ミッキー吉野は、ザ・ゴールデン・カップス時代に当時のジャズ喫茶等で多くのライヴ演奏をしたものの、一過性の演奏でなかなかクリエイティヴな音楽製作につながらなかった反省を踏まえ、ゴダイゴでは自身のレコーディングに加え、他のアーティストのバッキングや、CM・劇伴等を通し、ゴダイゴの「サウンド」を浸透させることを活動の中心においた。 代表的なものとしては、76年のNHK「男たちの旅路」や日本テレビの「いろはの”い”」、山内テツの「ききょう」やエディ藩の「ベイサイド・スウィンガー」等が挙げられる。
|
|
|
|
OST 「いろはの”い”」 |
OST「男たちの旅路」 |
|
|
|
|
|
|
山内テツ 「ききょう」 |
エディ藩 |
|
トミーの参加はバンドの方向性に転機をもたらすことになる。彼のドラミングは、フィルインを多用したアグレッシブなスタイルで、ミッキー吉野は後に「やっぱりビートが違うわけですよ。それで今まで自分が弾けなかったようなものも、できるようになった。あの辺りから(全体の)音もバカッと良くなりだした。」と語っている。 また、トミーはヴォーカルも取り、ソングライティングにも積極的で、様々なアイディアをもたらした。例えば、トミー来日後、ゴダイゴは幻の名曲「ゴダイゴ号の冒険」を製作している。そして77年1月には、ファンの間ではゴダイゴのベスト・アルバムとも言われる「デッド・エンド」がリリースされる。
|
|
|
「デッド・エンド」は、当時ニューヨークを震撼させた連続殺人事件「サムの息子」を取り上げるなど、当時の行き詰った社会情勢を反映したものだった。また、ミッキーは当時の日本の音楽を巡る環境をどう変えていくかで煮詰まっていたから「デッド・エンド(袋小路)」だったとも語っている。 このアルバムでは、スティーヴ・フォックスとトミー・スナイダーのリズム・セクションにミッキー吉野がピアノ、オルガン、シンセ、メロトロン等のキーボードを使い分け、浅野孝己はシャープなカッティングに加えて当時ローランドが開発中だったギター・シンセサイザーを使用する等、ソリッドなサウンドを展開している。
|
|
|
セカンド・アルバム |
|
|
初期のゴダイゴを語る上で、キーワードとなるのが「プロジェクト・チーム」という言葉である。ひとつひとつのテーマについて、「プロジェクト」として取り組むことで新しい可能性を見つけるというもので、そのテーマに応じて参加する面々も異なる場合がある。例えば、タケカワが作曲で起用されることもあれば、タケカワ以外のメンバーが演奏だけで参加する場合もある。テレビ音楽や映画のサントラ、CM製作、他のアーティストへの曲提供や演奏、そしてゴダイゴ名義でのレコード製作やコンサート、イベントへの出演と、全てが「プロジェクト・ゴダイゴ」としての活動と位置付けられる。この発想が、77年末に所属していたMCA日本支社の閉鎖という事件を乗り越える絆となる。
|
|
|
77年〜78年前半にかけての「プロジェクト・ゴダイゴ」の活動は多岐に渡る。劇伴として大林宣彦監督の「ハウス」やサンリオの「キタキツネ物語」のサントラ、サッカーの神様「ペレ」の引退試合や全米学生フットボールの公式戦前夜祭、そしてチャーや竹田和夫が出演した「3大ギタリスト夢の競演」等にも出演する。 |
|
|
| OST「ハウス」 | OST「キタキツネ物語」 | |
| 中でも77年秋に英国BBCで放映された日本テレビ系のドラマ「水滸伝」の主題歌(英語版)をゴダイゴが担当し全英チャート最高位第37位のヒットとなったことと、78年1月にそれまでのCM音楽製作の集大成として「CMソング・グラフィティ ゴダイゴ・スーパー・ヒッツ」がリリースされたことは特筆すべきであろう。 |
|
ドラマ「水滸伝」はイギリスで大ヒットし、主題歌 「Water Margin」(トミー・スナイダーがヴォーカル)もチャート・インした。
|
|
|
(左) 全米学生フットボールの公式戦(ミラージュ・ボウル)前夜祭での演奏 (右) |
|
|
|
「水滸伝のテーマ」のヒットを受けて、78年3月にはアルバム「新創世紀」から「僕のサラダガール」を「水滸伝のテーマ」に差し替えたものが「Water Margin(水滸伝)」としてイギリスでリリースされ、後に西ドイツやフランスでも発売されることになった。 初期のゴダイゴはライヴよりはスタジオでの製作に力を入れていたが、バンドとしての足場が固まるに連れてライヴ活動も活発化していった。78年3月に東京・九段会館で初めてのホールでの単独コンサートを行ない、5月にも中野公会堂でも「ライヴ!ゴダイゴ」と題したコンサートを敢行した。
|
|
|
UKアルバム「Water Margin」 |
||
| 78年はゴダイゴの歴史の転機となった年である。2月にFM東京の「デンオン・ライヴ・コンサート」は200回記念として、ロックやジャズ界のプレーヤーを集め、2回に渡りセッションを行った。この時、ロック側のバンド・マスターを担当したのがミッキー吉野(ジャズ側は渡辺香津美)で、2週目のロック/ジャズのクロスオーバー・セッションは「カレイドスコープ」と題してレコード化もされた。 |
|
|
|
「カレイドスコープ」 |
||
|
|
1週目はロックとジャズで別々にセッションを行い、ロック・サイドはチャー、ミッキー吉野、スティーヴ・フォックス、トミー・スナイダー、ジョージ紫等がジミ・ヘンドリックスのカヴァー等を演奏した。当時チャーは「気絶するほど悩ましい」等のヒットでアイドル的な人気を得ていたが、本人は本来のロック・ギタリストとしての活動を目指しており、アルバム 「スリル」のB面をミッキー、トミー、スティーヴと録音し、彼らとバンドを組みたいと考えていた。 78年の全国ツアーもチャーはこの4人でやりたいと考えていたが、バラ売りはしないというジョニー野村の方針から、チャーとゴダイゴのジョイントという形で行われることとなる。これが78年6月末から9月にかけての「チャーwithゴダイゴ」というユニットの誕生であり、全国ツアー「Char Super Concert with Godiego in Summer」でゴダイゴは初めて日本武道館のステージに立つことになった。このツアーではゴダイゴ単独のセットも用意されており、当時製作中だったアルバム「西遊記」に収録される予定の「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」、「セレブレイション」等が演奏されていた。 日本テレビ主催の「24時間テレビ〜愛は地球を救う」でも「真夜中のロック・コンサート」にチャーwithゴダイゴは出演、ゴダイゴは単独でのステージでオープニングを飾った。
|
|
|
チャー「Thrill」 |
||
|
78年10月にはゴダイゴが全面的にサウンドトラックを担当したドラマ「西遊記」(日本テレビ/主演:堺正章・夏目雅子)の放送が開始される。オープニング・テーマの「モンキー・マジック」は英語詞だが、エンディング・テーマの「ガンダーラ」は日本語版が使用された。ドラマの大ヒットと共にゴダイゴの音楽にも注目があつまり、78年11月後半からゴダイゴのブレイクが始まる。
|
![]() |
|
「ガンダーラ」の独特なメロディ・ラインと「モンキー・マジック」のファンキーな演奏、そして「モンキー・マジック」では中華風のエキゾチックなコスチュームや蜘蛛の巣等のヴィジュアル的なパフォーマンスも受けて、ゴダイゴは一気に人気バンドとなった。
|
![]() |
|
|
サウンドトラックとして製作された「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」はシングルとしても大ヒットした(ガンダーラは発売当時89万枚、モンキー・マジック
(79年リリース)は54万枚)。 モンキー・マジックは全部英語詞であり、これがベストテンに入るほどの大ヒットとなったのは、当時としては極めて異例な出来事だった。 ドラマ「西遊記」は、「水滸伝」同様英国BBCで放映され、未だにカルトなファンのいるヒット作となった(英国ではDVDでもリリースされている)。
|
|
![]() |
![]() |
(左上)ガンダーラ (右上)モンキー・マジック (左) 英国版「ガンダーラ」 |
|
|
|
78年10月25日に発売されたアルバム「西遊記」は、ドラマのサウンドトラックであると共にゴダイゴのオリジナル・アルバムでもあった。 このアルバムは全曲英語詞であるにも拘らず、約54万枚のセールスでオリコン・チャートの1位に輝き、ゴダイゴの最大のヒット作となった。
|
|
大ヒット・アルバム「西遊記」 |
|
79年はゴダイゴ・ブームが日本を席巻する年となった。まず、ユニセフの国際児童年のキャンペーン・ソングとして製作された「ビューティフル・ネーム」が1日3回NHKで放映されることになった。前年に引き続き「ガンダーラ」はセールスを伸ばし、次いでリリースされた「モンキー・マジック」もヒットし、「ザ・ベストテン」等の音楽番組を毎週にぎわすこととなった。 3月に開始された全国43箇所を回る「セレブレイション・ツアー」も好調で、4月8日の日比谷野外音楽堂では、大雨の中7千人の観客を動員した熱気あふれるライヴとなった。
|
|
||
|
|
スケジュールは過密になる中、ゴダイゴはレコーディングにも力をいれ、ミッキー吉野がゴダイゴのベスト・アルバムに挙げる「アワー・ディケイド」が製作された。 79年6月25日にリリースされたこのアルバムはアレンジャーとしてのミッキーのアイディアやこだわりが随所に散りばめられたもので、ギターやキーボードのソロも含め、緻密に計算されたサウンドとなっている。79年のツアーでよく演奏された曲が多数あることから、当時のファンには馴染みの深いアルバムとなった。 歌詞の内容も「万博」等70年代を振り返る内容で、全曲英語歌詞であるため、当時の子供のファンには内容がストレートに通じにくいところはあったが、キャリアの早い時期に万博に携わっていたジョニー野村やミッキー吉野には思い入れがあったのだろう。
|
||
|
シングルも「ビューティフル・ネーム」、タケカワユキヒデ名義での「ハピネス」、松本零士原作のアニメ映画「銀河鉄道999」とヒットは続き、CMも含めると毎日ゴダイゴの曲がテレビから流れないことはないという くらいだった。 8月には前年に引き続き日本テレビの「24時間テレビ〜愛は 地球を救う」にオープニング・アクトとして参加、今年はメインの扱いで演奏曲目も大幅に増えた。 10月にはブレイクのきっかけとなった日本テレビのドラマ「西遊記」の続編も始まり、ゴダイゴは引き続きサウンドトラックを担当、新主題歌の「ホーリー・アンド・ブライト」もシングル・リリースされた。
|
|
![]() |
|
![]() |
(左上)ビューティフル・ネーム (右上)銀河鉄道999 (左) ハピネス |
||
|
春のセレブレイション・ツアーは要所でホーン・セクションが起用され、8月にはゴダイゴ・ホーンズとしてメンバーも固定、ミッキー吉野のアレンジの幅を広げることとなった。春から夏のツアーではライヴ録音も行われ、これは79年10月リリースのゴダイゴ初のライヴ・アルバム「マジック・カプセル」となる。
|
|
||
|
ライヴ・アルバム「マジック・カプセル」 |
|||
![]() |
また、8月の晴海国際貿易センターでのコンサート等夏のツアーの映像と、「マジック・カプセル」という曲の製作過程やメンバーのプライベートな映像を収めた映画「マジック・カプセル」も製作され、映画館で公開された。 | ||
|
映画「マジック・カプセル」オープニング |
|||
|
そして、79年を締めくくるコンサートは、12月19日に行われた日本武道館での演奏で、この時の映像の一部はTBSの日曜特バン「音楽の魔術師 ゴダイゴ」で放映された。
一年通してヒットを連発し、国際児童年のテーマも担当したゴダイゴは当然に大晦日のNHK「紅白歌合戦」に出演、79年は大成功のうちに終わったかのように見えた。
|
|
||
|
武道館でのステージ |
|||
|
しかし、この華やかな活躍の陰に、バンドの危機が生まれていた。ベースのスティーヴ・フォックスの脱退である。 彼はアメリカで結婚し、妻を伴って来日した。日本で子供も生まれ、バンドも成功を収めて、いいことづくめのようだったが、妻のミミはスティーヴがツアーやレコーディングで家を空けることが増え、慣れない異国での子育てに加え、ファンが自宅を訪れる等のプレッシャーに耐えかね、79年末にはアメリカに帰ってしまう。スティーヴも年初に家族を追って渡米、関係修復に努めるが、最終的にバンドを選ぶか家族を選ぶかの二者択一を迫られ、ゴダイゴを脱退、アメリカで牧師となる決心を固める。 |
|||
|
80年に入ると、ゴダイゴは「新しい体験と再発見の旅」というテーマで海外を回り、ドキュメンタリー映画の製作を始める。 2月初に日本を離れゴダイゴはネパールに向かい、2月7日にカトマンズ市のネパール王立競技場で6万人の観衆を前に同国初のロック・コンサートを行った。 ネパールではこの他映画の撮影を行い、次いでタンザニアに向かう。ここでは、朝日放送の20世紀最後の皆既日食を追ううドキュメタリー番組「アフリカの黒い太陽」のために一週間滞在する。この番組の主題歌もゴダイゴが担当し、2月10日にシングル「リターン・トゥ・アフリカ」としてリリースされた。 バンドはロンドン経由でアテネに向かい、2月21日にタケカワユキヒデが、そして25日には他の4人が帰国する。 スティーヴ・フォックスの脱退は既に週刊誌等で採り上げられていたが、正式には3月19日に神戸で行われた「ポートピア1年前記念式典」が最後のコンサートとなった。 3月21日にメンバーは映画撮影のため、インドからイスタンブールを回る旅に出た。撮影後、ローマ経由でニューヨークに行き、ここでスティーヴはメンバーに別れを告げて、テキサスへと向かった。 |
|
||
|
ネパール王立競技場のステージ |
|||
![]() |
|||
|
6万人の大観衆 |
|||
|
スティーヴ脱退後も既に春のツアーの予定が入っていたが、これはスタジオ・ミュージシャンの富倉安生のサポートを得て乗り切ることになった。5月10日のNHKホールや7月29日の神戸ポートアイランドでのコンサートはテレビで放映された。
79年の「国際児童年」に続き、80年は翌81年3月に開幕する神戸ポートアイランドでのポートピア博覧会のキャンペーンがあり、7月29日のコンサートもこの一環で、造成中のポートアイランドにステージが設置され、抽選で選ばれたファンが参加していた。 |
|||
| また、80年前半はスティーヴの脱退によりバンドとしてのレコーディングが停滞したため、メンバーのソロ・アルバムが相次いでリリースされた。トミー・スナイダーは4月25日に念願のソロ・アルバム「ゼア・カムズ・ア・タイム」を、そしてタケカワユキヒデは75年の「走り去るロマン」以来の「レナ」をそれぞれ発表した。 |
![]() |
![]() |
|
|
春のツアーと並行して、スティーヴ・フォックスの後任選びは進んだ。サポートで参加していた富倉安生の参加も検討されるが実現せず、結局、80年初にジョニー野村・奈良橋陽子・タケカワユキヒデらが製作に携わったミュージカル「ヘアー」に参加していたアマチュア・ギタリスト吉澤洋治がベーシストとして加わることになった。 一般へのお披露目は8月25日の「スター千一夜」で、31日の日本テレビ「24時間テレビ〜愛は地球を救う」のステージでは吉澤がベースを演奏した。
|
|||
|
シルクロードでの体験を踏まえ製作され、1980年10月1日にリリースされたアルバム「カトマンドゥー」は、タイトル曲のみスティーヴ・フォックス在籍時の録音 で、それ以外は吉澤加入後の演奏となった。 製作中のドキュメンタリー映画でもこれらの曲が使用され、吉澤の出演シーンも撮影された。 アルバムでは、映画撮影にも同行した民族音楽演奏の大家である生明慶二がサントゥール等の演奏で参加している。
|
|
||
|
(左)アルバム「カトマンドゥー」 - 後列右が吉澤洋治 |
|||
|
80年10月には、海外での大きなイベントが二つ行われた。
一つ目は、ロス・アンジェルス市のシヴィック・センターで行われた市制200周年記念のイベント「ストリート・シーン」への出演で、日本からは他に渡辺香津美やジョニー・ルイス&チャーが招かれた。 イベントは10月11・12日の2日間に渡って行われたが、ゴダイゴの出演は11日でこの時は富倉安生がベースで、浅野孝己・吉澤洋治のツイン・ギターという珍しい構成だった。 次いで10月22・23日には中国・天津市の天津第一工人文化宮で開催された「第1回中日友好音楽祭」への出演で、これは中国初のロック・コンサートという触れ込みで、日中それぞれのテレビで放映された他、ライヴ・アルバム「中国 后醍醐」として同年12月25日にリリースされた。 この年は映画音楽「遥かなる走路」のサントラ・アルバムもリリースされたが、このアルバムはベースがスティーヴと富倉、ギターが浅野と吉澤と、ゴダイゴの過渡期を象徴するものとなった。 12月24日には代々木国立第二体育館でオーケストラと共演したクリスマス・コンサートを行い、そして12月31日のNHK紅白歌合戦と、「行く年来る年」での「ポートピア」演奏をもって80年のゴダイゴの活動は締めくくられた。
|
|
|
LAでのストリート・シーン |
|
![]() |
|
|
万里の長城に佇むメンバー |
(続く)
GODIEGO UNOFFICIAL WEBSITE
(c) 2005 by STUDIO-G All rights reserved
無断転載禁止